朝日は今あなたを待って

綴ることで自分を保ちたいです

きみの傘になりたい

 

 

ここ数日、じゅり担とずっとスクラムを組んでいたい気分だ。

約四年半、週一で深夜の一時間半を私たちに預けてくれていたじゅり。それが二ヶ月間もなくなるなんて想像もつかない。もちろん、ジェシーがMCを務めるのも、次のパーソナリティーが誰になるのかも楽しみだけど、やっぱりラジオは毎週じゅりの生の声を聞ける、いわば私の居場所のようなものだったから、どうしたって寂しい気持ちは生まれてしまう。じゅりと会える土曜を支えにして一週間頑張れて、声を聞いて顔を想像して心救われるためにいるオタクなので。はしゃぎたい夜も、どうしたって心細い夜もじゅりが楽しそうに話しているのを聞くと私もとても嬉しくなった。そしてじゅりの使う言葉の柔らかさや心遣いに泣きそうになったりもする。そんな、とても特別な一時間半なのだ。
じゅりはすぐ戻ってくると言ってくれていたけど、きっと私にとってそれはすごく長い二ヶ月間になるだろうと思う。
そんな寂しさをじゅり担が抱いてあるであろう中で、なんとまあ嫌な感じに推しが炎上した。

私は基本このオタクアカウントではいい感じにTLを精査できているしおすすめ欄もどちらかというと快適に使えている。だからじゅりが出ている番組の一企画でじゅりが燃やされているってちゃんと知ったのは多分日曜日とかだったと思う。
番組放送前の事前動画でじゅりが言っていた言葉から大体展開は察することができた。放送はリアタイしていたが、私がじゅりのオタクだからということもあって、特段じゅりがめちゃくちゃ悪いようには見えなかったのだ。だから正直びっくりした。
あの企画でじゅりだけがあんなに批判されることって、番組側はきっと想像していなかっただろう。私だって、多少の炎上は覚悟していたけど、その燃え広がり方も、批判のされ方も、私はいまだに納得がいっていない。芸能人が何かしら批判される時って、それが真っ当である時もある。それはその人自身が何かしらの罪を犯したり、誰かにとっての加害者になった時だ。まあ私はその場合ですら当人たちの問題だから批判する必要はないと思っているけど、今回はそれを引き合いに出させてもらう。
そういうものと比べて今回炎上した動画の中で、じゅりは一つだって誰かに加害したわけではない。あくまでじゅり自身が挨拶を返さなかった、というだけだ(というか私は、他の人が拾わないことが多かったADさんが落とした紙を拾っていたりして、そういうところがじゅりの優しさなんだ、と好意的に捉えていた)。それなのに、批判的な意見には動画の内容プラスじゅりの容姿や体にまつわること、家族のこと、じゅりのパーソナルな部分のことを否定する人が本当に本当に多かった。何を目の敵にしてそんなに批判しているのかよくわからない。どう考えたって理不尽だった。

無断転載されてる動画の一部分だけ見てる人たちにじゅりの人生の消費をされる筋合いはない、と思った。私はじゅりを筆頭に、私たちに素晴らしいエンタメを提供してくれる彼らのことが好きで、お金を払っている。そしてそれと共に、何かしらで傷つく覚悟で彼らのことを推している。でもそれは彼らから傷つけられることの覚悟であって、決して誰かが私の好きな人たちに暴言を吐くことの耐性をつけてるわけじゃない。
私は私の好きな人たちが強い言葉で傷つけられている時、本当に真剣に彼らに「死なないで」と思っている。そんな簡単に死ぬわけない、と思う私と、そんなことはないんだよ、と思っている私がいて、だから私はそう祈ることしかできない。大袈裟なことを言っていると思うかもしれないけれど、批判している人たちが彼らのことをそうさせてしまう可能性があるということは事実としてある。
私は、ももクロが幼少期から大好きだった。6年前、グループからメンバーが一人脱退した。そのメンバーがグループを抜ける発表をした時に他の4人のメンバーからいじめられていたという憶測が広がって、それを助長する1:4の構図になっている写真を貼りつけた1分程度の動画の存在にめちゃくちゃ苦しめられたことをこの件で思い出していた。私が見つめてきた5人の9年間と少しをほんの少し切り取った動画が簡単に塗り替えてしまって、そして外野はそれしか見ないから、私がもしSNSのどこかで「いじめなんて絶対ありませんでしたよ」と書いても、「ファンなのに何も知らないんですね」って言われるんだよ(実際言われたことがある)。今SNSの中で、切り抜きってそれくらい影響力があって恐ろしいものになってる。だからオタクはこれから今回の件の怖さをもっと実感することになるかもしれない。
私はじゅりちゃんのことを大好きだしこれからもずっと好きだけど、私が今までじゅりのことを見つめ続けてきた時間が、いつか外野から無かったものにされちゃうんじゃないかって、本当に怖い。
私にできることはじゅりのことが大好きだって、じゅりにも、じゅりのことを知らない人にも伝えることだな、と思う。どうかアイドル人生が終わるその時までじゅりにアイドル田中樹を愛していてほしい。

今回の件でじゅりのことを守る力が本当にないことを実感したというか、いくら守ろうとしたところでそれを潰したい人たちはいくらだって出てくるしそんな人に使う時間も心も勿体ない。私は、じゅりが求めたその瞬間にじゅりの鎧になれる人でありたいのだ。私は田中樹というアイドルの、常に鎧を纏っているところがいっとう好きだ。でもその鎧を纏うことに疲れを感じる瞬間もあるかもしれない。そんな時じゅりが自分自身の鎧を脱いで、別の鎧を与えることができるような存在でいたい、と思ってしまったのだ。そしてそれが何かと考えた時に、それは傘だと思った。
何を言っているのか自分でもいまいちわからないけど、でもとにかく私はあなたの、じゅりの、傘になりたい。あなたが望んだ時に開いてほしい。石つぶてくらいからなら守れると思う。私はいつだってじゅりのことを想っているし、そばにいるし、立ち向かう覚悟だってある。
じゅりの優しさをどうかじゅり自身にも向けて、頼ったり安らかに過ごせたりする場所がたくさんありますように。と本当に深く、心の底から祈っている。

「どれだけ祈りが不甲斐ないとしてもせめて言葉と想いは使い果たしてゆくよ」なのです。

糸、出会い、きみ。

 

 

入所日のブログは、“アイドルの田中樹さん”にだけ宛てて書いたからシンプルに思いを綴れたんだけど、誕生日のブログは何を書けば良いのかわからなくて難しいな。

だからなんとなく、ふわ〜っと、私が樹ちゃんの言葉をどんなふうに噛み締めて、そしてお守りにしているかを書ければいいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 


○かえる場所

 


今まで一人だけ俳優に推しができて、その人を好きになったきっかけは、誰かを思いやる気持ちや、それが滲み出る言葉の数々だった。

 


SixTONESを知って、まず最初にほくじゅりのコンビとしての関係性が好きになった。そこから約一年間くらい、特定の推しを決められずにいたところに出会ったのが樹ちゃんの言葉についてまとめられたブログだった。そうか、樹ちゃんはこんな風な言葉選びをする人なんだ。優しい人なんだな、と思ってブログを閉じた私は、数日後また同じブログを読んでいた。

漠然と“あぁ私はじゅり担になるんだな”と思った。重ねられた言葉たちは、私の知らない樹ちゃんの月日を自ずと教えてくれる。その言葉の優しさや配慮の一部に、私もいることがある。そんなことを感じて、私はこの言葉たちを私の心の拠り所にしていることに気づいた。

いまだに縋りたいものが見つからない時、そのブログに帰ってくる。真っ暗な私の心の底を照らしてくれる小さな光。その光だけを見て私は前に進むことができる。私がいちばん、じゅりちゃんに出会えて良かったと思える理由だ。

 


私が今まで大切にしていた言葉たちは、特に脚本家の坂元裕二さんの言葉がドラマや映画の中で紡ぐ言葉だった。私は彼の書くセリフを100%理解しているとは多分言えない。だけどずっと心の隅にセリフたちがあって、何かに絶望した時にそれらがぽんと浮かんできて、まるで毛布のような形になって私を包んでくれるような、そんな感覚になったのだ。

 


じゅりちゃんの言葉は全方位型配慮、と称されていることがあって、なるべく例外を作らないような言葉選びだったり、人、動物、無機物にまで慮っているその語彙が本当に好きだ。大好きだ。なるべくそのひとつひとつを取りこぼさないようにしたいと思えるくらい大切なのだ。

その言葉たちもまた、私の心細い夜を包んでくれるあたたかいもので、今私がいちばん手放したくないものだとはっきりと言える。

 


漠然と心がどこにもないと感じる瞬間って、みんな等しくあるかも知れない。私はそんな時ふっと「かえりたい」という言葉が頭に浮かぶ。どこにかえりたいのかもわからないその気持ちを、樹ちゃんの言葉を浴びてしずめることが多い。じゅりちゃんの言葉をまとめたブログを何度も読み返したり、大好きでメモした言葉を読み返したり。それはきっと私が樹ちゃんの言葉をいつのまにか私がかえる場所にしているのだろうと思う。もしかしたら樹ちゃんの言葉が好きだ、と思ったその日からかもしれない。

 

 

 

 

 

 

○私があなたを感じる言葉

 


本当は元々書いてたお誕生日ブログではこれをメインに書こうとしていたのだけど、なんとなく重くなってしまったから少しだけ、載せます。

 

 

 

ドラマ「カルテット」で一人のキャラクターが自分の抱く「好き」の気持ちについて話すシーン。これは私のbio欄にも書いている、大好きなセリフ。

 


「私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか。(中略)ちょっと、ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?住所をまっすぐ書かなきゃいけない時とか、エスカレーターの下りに乗る時とか、バスを乗り間違えないようにする時とか。(中略)白い服着てナポリタン食べる時、そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの。いて エプロンかけてくれるの。そしたらちょっと頑張れる」

 


私はドラマを通してもこのシーンがいっとう好きだ。多くの人が共有することのできる、好きという気持ち。それが今のところ実際会ったことのある誰かに向くかはまだわからない。けれど樹ちゃんへの好きは、このセリフととても近いところにある。ずっと、常に、樹ちゃんがどこかに存在してる。好きだと考える暇もないくらい常にいるなんて、そんな気持ち今まで経験したことがないのだ。だからこそ、このセリフのように樹ちゃんはことあるごとに私を正してくれる。もし体の中心に糸が通っているのならその糸を真っ直ぐにしてくれるような、そんな感覚。それは家族といる時も、学校にいる時も、友達といる時も、ベッドの中にいる時もそう。私は発表というものがものすごく苦手で、それを行う時も。より良いものにしよう、少しでも良いことをしよう。そんな気持ちの先に、いや、ずっと手前に?樹ちゃんがいるから、その一瞬の躊躇や踏ん張りを乗り越えられる。

だから、というわけではないけれど、そんな人に出会えて良かったと、心から思っている。

 

 

 

 

 

 

「ライヴっていうのは「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所なんですね 」

 

 

 

ひとひら言葉帳(@kotobamemo_bot)のポストより知った、穂村弘さんの言葉だ。

私は今年のVVSが初参加したSixTONESのライブだった。これは樹ちゃんの入所日ブログにも書いたけど、顔が見たいというより会話やスキンシップを誰の手も加えられていない状態で生で見れることの嬉しさと、彼らが作り上げた空間の中に私もいるということがどうしようもなく嬉しくて、後にも先にもこんな感情になるのはじゅりちゃんだけだよ、と思う。それが本当になるかはまだわからないけどそういう大きな予感を抱けていることが私にとっては奇跡みたいなものだ。

アイドルの彼らが歌うのは夢であり幻想だと思う。私にとってそれはイコール嘘ではない。けれど確かに“夢”ではあるので、それは現実ではない。私がアイドルに縋る時間は全て現実逃避だと言っていい。それくらいの力がアイドルにはあるから。

樹ちゃんがどこかで言っていた、「アイドルの仕事を楽しそうと思わせたら勝ち」という言葉もこれに関連性があると思う。アイドルというのは職業だ。私の好きな人たちが後天的な属性として選んだ一つのおしごと。その仕事の一環としての行為に私たちは魅せられ、そして救われる。

樹ちゃんが私に夢じゃない夢、を見せてくれる。それはアイドルの力を信じられるということだ。私がもしじゅり担を降りることがあるとするならば、それは多分樹ちゃんのアイドルとしての力を信じられなくなった時。君の紡ぐ言葉が信じられなくなってしまった時。でも今樹ちゃんのことを見つめている私は、そんな未来はきっとないと思えている。このことがどれだけ希望か、君は知らないままでいてほしい、とさえ思う傲慢さも全部知らないでいてくれるね。

 

 

 

 

 

 

わたしを見つけてくれてありがとう。わたしを好きになってくれてありがとう。ねえ、戻れない場所がいっせいに咲くときが、世界にはあるね。ずっと、ずっと元気でいてください。お元気で。/川上未映子「青かける青」

 

 

 

こちらもひとひら言葉帳のポストから。

 


ファンが推しを決めることを「見つける」と称することがあるが、私にそれを置き換えるとなんだか違う気がする。

私が彼を見つけた。本当にそうだろうか?本当に私が彼を見つけ、そして選んだのだろうか?それは違う、と思っていた。この言葉を目にした時、私の感情の答えはこれなのだと、思った。私が樹ちゃんを好きになったのは、私が彼に見つけてもらったからだ。

樹ちゃんの言葉はどこまでも広く“誰か”を内包している。そしてその一部に自分が入っていた時、ものすごく嬉しい。樹ちゃんがもしスポットライトだとするならば、私はそれに照らされているから、今日も生きていると言っても過言じゃない。

樹ちゃんが私や誰かを見つけ、選び、照らして掬い上げてくれたから、私は樹ちゃんに救われたと思える。思えている。だから私はじゅりちゃんが好きなのだ。

そしてじゅりちゃんの言葉たちは、私を認めてくれること、と同義だ。

人に認められないと自分を否定された気持ちになり、自分で自分を殺してしまう。それを樹ちゃんがしてくれたことは、認めてくれたことは私にとって紛れもない事実だから。だから、ずっと元気でいてね。笑っていてほしい。私の好きはその人が笑ってくれること、と好きな人も言っていた。だから笑顔でいてね。私を見つけてくれてありがとう。

「救い上げる」ことと「掬い上げる」こと。これらは同音同義語だと私は思っている。そしてそう考えるたびに樹ちゃんのことを想っている。

私は樹ちゃんに、ずっと、祈りを向けていたいなと思ってしまう。傲慢だということもわかっているけれど、それでも樹ちゃんが幸せな未来で生きてくれるのならば、それ以上の幸福はないなと、つい思ってしまうほど大好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○眼差すひとであること

 


樹ちゃんの優しさは樹ちゃんだけのものだと、そう思う。私が樹ちゃんのことを知ったのは本当に遅くて、どういう経緯で事務所に入ったのか、とか、家族のこととか、何も知らなかった。だから樹ちゃんの言葉を知って、そしてアイドルとしての人生を追って、勝手にその裏側を想像した。じゅりちゃんの言葉の優しさは、自然とそうなったのではなく(自然と生み出されている言葉も様々あるが)そうならざるを得なかった部分があったのではないか。もちろんこれは私が勝手に解釈したじゅりちゃんの像なので事実でもなんでもないが。そうするために、どんな経験を積んできたのだろう。樹ちゃんは自身が中学生の頃に教師に本を読むことを勧められて当時はたくさん本を読んだと言っていた。その、「自分が読みたい本で言葉を覚えていく感覚」は今の樹ちゃんにどんなふうに影響しているのだろうか。

樹ちゃんが普段、正しい敬語を使うのに脳みそを働かせているという事実が私はとても好きだ。樹ちゃんの生を感じると共に、これまで、を感じられるから。感じられる、というより勝手に感じていると言った方が正しいのだけど。

 


樹ちゃんはまず、ソロ曲「Sorry…」のメイキングにて「僕が歌うことの説得力がすごくある気がしてて。この楽曲が。リリックひとつひとつが。“田中樹”像、になるべく近づけていくというか。」と話していた。そして2023年10月号のananでも、自身の言葉の説得力について話していた。樹ちゃんの、ファンの人に届けるべきものをちゃんと届けようという姿勢と、さっき見た亀梨くんとの動画で自身の劣等感について言及するところ(ギリ生きオタクすぎるね)が共存しているところに、私が抱く樹ちゃんらしさを強く感じるなと思う。そのための立ち居振る舞いだったりをこなし、それでも言葉に滲むのは樹ちゃんの優しさであることを、私は何度だって噛み締め続ける。優しさには天性のものと意識してそうするものの二種類あって、樹ちゃんにはそのどちらもを感じる瞬間が多い。樹ちゃんが誰かに向けた優しさをこんなに享受できるなんて、私は本当に幸せ者だと思う。

そして樹ちゃんは、VoCEで言葉の責任について話している。番組の見え方を意識し、発する言葉の力の強さや加減を調節し、そして伝える。なんて強い人だろうか。私は樹ちゃんが巧みに言葉を操り、鎧を纏っていることをすごく嬉しく思っている。私が樹ちゃんを好きになって何より感謝したのは、樹ちゃんが生身のままでそこにいないことだった。勿論芸能人なんてみんなそうなのであろうが、樹ちゃんには特に強くそれを感じた。武装する鎧を纏ってくれているひと、それが今の私の好きな人である喜びやうれしみは想像以上のものだった。

 


樹ちゃんが人一倍言葉というものに気を遣いながらそれをちゃんと自分のものにしていること、そしてたくさんの配慮に満ちた言葉遣いをしていること、それらが同時に存在するきみの頭の中を、一度見てみたいとすら思う。

私は樹ちゃんをずっと眼差している。樹ちゃんが使う言葉の数々を浴びてめろめろになりながら、そんなきみになりたいと思っている。それを可能にする経験も、努力も、私には計り知れないけれど、けど優しい人でいてくれるじゅりのことが何よりも好きで、近づきたいと思ってしまう。それが私だった。

 

 

 

 

 

 

 


○おわりに

 


本当(マジ)で誕生日当日にばたばたしながら書いたので脈絡のないごたついた文章になってしまっていると思うので、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます!😭

樹ちゃんに向けるすきの気持ちはなかなか言語化できなくて、こうして想う気持ちの数々に、私のほんとうが散らばっているのだと思います。そして樹ちゃんが紡ぐ言葉たちも、そうであればいいなと思いながら私は今日もラジオを聞いてその幸福に酔いしれるのだと思います。

何が言いたいかというと、とにかくだいすき!ということです。

 


樹ちゃん、29歳のお誕生日おめでとう。アイドルとしてたくさん言葉を紡いでくれてありがとう。私に出会ってくれてありがとう。

樹ちゃんがどうかめいっぱい幸せを感じて、大好きな人たちと笑っていられますように。

 

 

 

スペースのスピーカーになれない

*私が抱える障害と希死念慮について話しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吃音と共に生きてきた人生。

吃音には主に三種類あるけど、私は難発性が主で、連発性もたまに出る。

 

 

保育園生の頃、吃音について同い年の子たち数人にいじられていつも泣いていた。
小学校低学年の頃、吃りを真似されてひっそりと隠れて泣いていた。
それでも私はそこまで吃音を悲観的なものだとは捉えていなかった。それには色んな要因があって、例えば両親の友人が障害についての理解がある人ばかりだったり、父親が吃音症でありながら自営業をしていることなどがあった。
そう、私は周りに恵まれていた。元々大人に懐きやすい子供だったのもあるかもしれない。私の周りの大人たちは、否定せず、流さず、真剣に私の話を聞いてくれた。

考えが変わったのは小学5年生の頃だったはずだ。高学年になってから、圧倒的に「発表」の機会が増えた。クラスの人の前に立って一人で話す、グループで話す。そういうやつ。
その頃から人前に立つことに対する恐怖心がみるみる増していった。
怖い。失敗したら。吃り続けて私一人のせいで発表時間が伸びてしまったら。心の中で誰か笑っていたら。
そう思うだけで胸の鼓動が早くなって、心臓が鉛のように冷たく、重たくなっていく。考える暇もなく涙が出てきて、上半身の中心がぎゅっと絞られた雑巾みたいにキツくなる。
その頃、ああ、吃音を持って生きるってこういうことなんだという人生に対する諦めと、希死念慮が生まれた。

小学5年生のその頃から、ずっと死にたいと思いながら生きている。

6年生、修学旅行の後、修学旅行で学んだことについてまとめたものを他学年に向けて発表する機会があった。
私が今まで苦しくても発表できた理由は、私の醜い疑心を上回るくらいみんながちゃんと私の話を聞いてくれたからだ。私は少人数の学校に通っていたので、2組しかない学年で、合わせて60人くらいクラスメイトと6年間過ごしてきた。それ故、みんなは私の障害について、“そういうもの”と認識してくれていたし、今さら面白がる人もいなかった。
でも、それは、私のことを知ってくれていたから。
なら、他の学年の子達はどうだろうか。
そう想像した途端、無理だ、と思った。私は年下の子たちの前に立って発表することが、できない。また吃って、そして笑われて心が折れる未来しか想像できない。
どうしようもないほど自分に対する嫌悪感と、それを抗うほどの恐怖心が私を襲って、そして私はその日結局学校を休んだ。
なんて弱くて馬鹿な人間なのだろうと今でも思う。でも残念なことに、私にとって傷つかないことはプライオリティなのである。
そしてやはりそれと同時に私を希死念慮が襲った。

確かその頃だったと思うけど、我が家に「吃音 伝えられないもどかしさ」という本が入ってきた。父親が買ってくれた本だ。
本の冒頭にはプロローグがついている。そこから6ページに渡って続く短い“誰か”の告白。私はそこまで読んで、その本を読むのをやめた。あまりに私だったからだ。共感しすぎて、苦しみが一緒で、息ができないくらい泣いてしまったからだ。
ああ、苦しい人は苦しんでる。私と同じ息苦しさを味わっている。
もっとその本を読めば私の救いになるものが見つかるかもしれない。けれど、読めない。
そのテキストの共感力が高すぎて、私がその本を開いた時、必ず指はそのページを選んでいる。読んで、泣いて、辛くなってやめる。その繰り返しになってしまった。なぜか絶望することしかできなくなっている。
ああ、死にたい。私、死にたいなぁ。
漠然とした思いは、どんどん確信に変わっていった。

 

中学生になると、近くの大きな小学校と合併して2クラスから7クラスまで増えた。
私が身を置く環境が、だんだん大きくなっていく。それに比例するように吃音への拒否感、それに伴う自分への嫌悪感が募っていく。

高校生になるとさらにクラスが増えて、私の周りの社会がどんどん大きくなっていく。毎日死にたいと思っている。私は周りに恵まれていて、趣味もたくさんあって、私もそれら全部が大好きなのに、毎日、死にたいという感情が募っていく。

そもそも私は自分のことが嫌いだった。自分の顔も性格も低身長なところも大嫌いだ。それに加えての吃音。もう最悪だと思う。
喋れない、というだけでこんなにも生きづらいのかと感じる。
マイノリティにマイノリティを重ねた人生だった分、他のマイノリティのことも知りたいと思えるようになったし、そういう意味では良かったのかもしれないと思っているよ。けれど、やっぱり恐怖と嫌悪がそれを上回ってしまう。どうしても普通になれない。普通なんてないことはわかっているのに、私がみんなのように喋れたら、どんな風にみんなとコミュニケーションを取れただろうかと思う。

Twitterでオタクと交流してると、色々と関わりの場があることを知る。ライブ会場で会ったり、スペースで話したり。でも私はそれすら怖い。私がフォローしてる人は思考が似ていたり勝手に信頼していたりする人なので私の症状も笑わないかもしれない。けど、それも可能性で、絶対にそうという確信はない(フォロワーのことを貶しているわけではなく、私が勝手に怖がっているだけなので、ごめんなさい)。
スペースで会話しているのを聞いていると、いつも羨ましいなと思えてしまう。入りたいな、でも吃って戸惑われたらどうしよう。私はその一瞬に耐えることができない。
ごめんなさい。大好きです。でも話すことが怖くて、会うことも話すこともできない。

 

家族と話すのも友達と話すのも好きだ。でもずっと、どこかにかえりたいと思っている。“かえりたい”、家にいるのに、私はどこかにかえりたいらしい。よくわからない。ずっと心臓のところに鉛が引っかかっていて、それがどうしても私を息苦しくさせる。吃っている時の、喉に蓋が閉まって息が苦しくなる感覚に近い状態でずっといる。
家族や友人は好きだ。たまに、軽く見られてるなとか、ああそれを否定されるんだとか、思ってしまう時はあるけど、そんなもの帳消しにできてしまうくらい好きだ。でも生きたくないんだ。これ以上吃音を抱えたまま生きていくのが辛い。大学にもきっといけない。社会人にもなれない。なったらなったで今より希死念慮が強くなるだけで、私のメリットなんかない。別に、自殺したいとは考えてないよ。でも、誰かに殺されたいなとか消えたいなとかみんな忘れてくれないかなとか、いつも頭をもやもやと囲んでいるもやみたいなものは、一生消えてくれない。
誰かと話すのも好きだ。でも私の第一声でガッカリされたら。そう考えるだけで体が震えて涙が出るくらいに、本当に怖い。こんな人間、生きてる価値なんかないよ。もう、もう、泥に沈み込んで死んでしまいたい。

 

今を裸足で駆け抜ける君に

2024年4月7日、日曜日。私はアイドル・田中樹さんを見た。

本当は帰りの新幹線でメモ帳にその日感じた樹ちゃんの様々を書き記しておきたかったのだけどあまりに時間がなく用意できなかったので、ちまちまスマホに打ち込んだじゅりのアイドルとしての姿を反芻しつつ、その瞬きと私が感じるアイドルという存在について書こうと思います。

二人称がころころ変わります。また、VVSのネタバレを含みます。

 

 

 

ライブに当選してからというもの、今まで見るだけだった「アイドル短歌」という文化に自分自身も入り込み、31文字を捻出することに時間をかけた。未だ円盤上でしか見たことのない樹ちゃんのライブの煌めきを頭の中に想うと、言葉がスッと出てくることが多い。彼自身のストーリー性や本質の見えなさ(見せなくていいし見たいとも思っていないけど)が、私が彼に感じる影の部分で、そうでありながらもステージ上で強い引力を持つ彼がいっとう好きだった。

 

そんなじゅりが、そこにいた。

どうしたらいいかわからなかった。ただただ、選ぶ一つ一つの言葉が好きで好きになった人だから。アイドルとしてのじゅりを見つめ続けてきたつもりでも、実際に目にするとこんなに言葉にできないものかと、自分の語彙力のなさを恨んで、胸を詰まらせるばかりだった。

でも、何より生で見る樹ちゃんは可憐で美しくてかわいくて、何よりかっこよかった。

 

私、本当にライブという空気感が好きだしそれを作り上げてくれるアイドルが好きなんだなぁと思った。

顔が見たい、ファンサを貰いたいというより会話や絡みを誰の手も加えられていない状態で生で見れることの嬉しさと、彼らが作り上げた空間の中に私もいるということがどうしようもなく嬉しくて、後にも先にもこんな感情になるのはじゅりだけだよ、と思う。だから私はアイドルの田中樹が好きだ。

 

例えば私が入った公演は樹ちゃんが「Something from Nothing」1サビを早く歌っちゃった公演なんだけど、私も周りのオタクもそれをかわい〜と思って見てた人が大半だったと思う。でも、オタクのそんな甘さを全部吹き飛ばすように、その後のメドレーを怒涛の声量と熱量で巻き上げていったところ、本当にかっこよかった。

「燃料が100あって、それをみんな人生100年分で注いでいるとしたら、この10何年でその100を一気に消費してる感じだから」を思い出した力強いメドレーだった。

 

 

Seize The Day、今回のアルバムの中でも特に好きな曲なのだけど、ライブで聴くとまた一味違った味わい深さがあって良かった。

今回のライブでの樹ちゃんは、ラップは勿論、歌のパートが印象的で、特にこの曲は樹ちゃんが曲の大事なパートを担っていると思っている。

曲調が変わる直前の「Everybody, we won't be young forever Just seize the day... Just seize the day...」という歌詞を、たくさんの水が噴き上がる幻想的な風景の中歌って、曲の締めに「Just around and moving Keep on goin' goin'」と歌う。

じゅりがこうして歌うことにどんな意味があるのだろうか、とたまに考える。ここにどんな気持ちがこもっているのだろうか、とも考える。

 

少し前に、コロナ禍で配信での公開となっていたディズニー/ピクサーの「私ときどきレッサーパンダ」の劇場公開に行ってきた。

この作品はレッサーパンダになった主人公の体を戻すために周りの人が心を込めて歌を歌うことが必要、という設定があって、作中に出てくるアイドルが、たった一言歌うだけで大きな力を宿す、というシーンがあった。そのシーンが、どうにも忘れられない。あんなにも“アイドルの力”を可視化した作品に出会ったことがなかった。

そしてその描写は、アイドルが私たちに向ける歌詞は、心がこもっているものであると暗に示しているが、実際にそうなのかはわかり得ないことだ。

 

それでも、その映画を観た後にじゅりの歌声をたくさんのお客さんと共に聞いた時、あぁ、私はこの人のアイドルとしての力を信じられるんだ、と漠然と感じた。

アイドルを信じる、という概念がどういうことか未だに掴めていないけど、じゅりを見つめていたら何かがわかる気がして私はじゅりを見つめ続けているんだと思う。

 

 

じゅりが私たちに見せてくれるアイドルとしての田中樹、はただのじゅりの一側面でしかなくて、でもそれがまるっきり嘘だなんて私は思えないから、大きいことを言うけど私は今この世界で息ができているんだと思うよ。

どうにもならない夜に、まぶたの裏にじゅりの姿を見て、涙することがたまにある。それはね、じゅりがとびきり優しいからだよ。常に外側にいる誰かのことを考えるあなたの優しさが、どこまでも染みるくらいあったかくて、私のぜんぶを包んでくれる。

じゅりの優しさはじゅりだけのものだ。じゅりが今まで生きてきた中でのたくさんの積み重ねによって生まれたもの。じゅりが取りこぼさないようにしてくれた一部に自分が入っている時、私はどうしようもなく泣いてしまうし、そのおかげで今日この日を頑張れてる。それがアイドルとしての田中樹の力であり、私が眼差したいと思えるじゅりだ。

 

攻めてるようでいて、大事な人たちを守っている、そんな頭のいいじゅりが好きだし、そんなじゅりが守られる世界でいて欲しいと思うし、私はずっとそれを祈っていたいと思う。ずっと、じゅりのことを祈っている。

 

じゅり、今日この日にアイドルとして生まれてくれてありがとう。じゅりが培ってきた16年間をきちんと拾えるような人間になりたいです。

眩しすぎるくらいの光で私のこと照らしてくれてありがとう。どれだけ遠くに居てもじゅりがたくさん光ってくれるから、届いてるよ。

 

田中樹さん、16歳のアイドル誕生日、おめでとう。大好き。

 

 

 

この空のすべて

 

 

TwitterがXへと変わり、私の手の中の世界は以前よりも攻撃的になったような気がする。元々ここ数年のTwitterとはそういった議論がなされる場だったし、それをただ傍観するだけの立場であったのだけど、その間、自分なりに本を読んだり映画を観たり、自分のことを振り返ったりして、価値観をアップデートしようとしてきた。

だからこそ、ここ最近の、激しくなる一方なSNSに対する疲れや不満が溜まっていた。世界情勢のこともあり、マジョリティとマイノリティ、強者と弱者、その位置関係や交わされる言葉についても色々思考を巡らせた。この世界を覗く時、わたしはいつもピンと心の中に糸を張り詰めているみたいだった。そんな中でたくさん考えた。それでも、耐えられなくなってしまうことがどうにも多い。どうしようもなく涙が溢れたり、現実から目を背けたくなったりする。

どうすればもっと世界は優しくなれるのだろうか。そんなことばかり考える。ずっと深い海の底にいるみたいだった。

 

そんな時に、映画「夜明けのすべて」を観た。

私を底から掬い上げてくれる、一筋の光だと思えた。

今、息苦しいと思いながら生きている人にこの映画が届けばいいなと願いながら、私は今これを書いています。

 

 

最近、いろんなことを考えざるを得なくなっている。元旦に起きた大地震や脚本家の方の自死のニュースが顕著で、そこに関わった人たちは今どれほど苦しんでもがいているんだろうか、と気を緩めると頭の中はそんなことでいっぱいになる。ショッキングな内容のニュースがわたしたちにはあまりにもダイレクトに届いてしまい、そこに付随する声も、よく見える。

わたしたちの分かり合えなさ、マイノリティに属する自分への不安を心から実感する。

 

そんなものをすべてくるむように、じっくりじんわり解していく、わたしの心のケアをしていく映画が「夜明けのすべて」だった。

 

なんて優しい映画であったろうか。誰も誰かの権利を侵害することなく、ただお互いを程よい距離感で気遣いあう、そんな希望を描いている。

栗田科学のような職場なんて夢物語だという声もあったけれど、私は、フィクションにこそ夢や希望を込めるべきだと思う。私たちが一人一人努力すれば、こんな場を作れるかもしれない。そう思えることは、希望にはならないだろうか。

私はまだ未成年の立場であるけれど、今、この国に生きていて、具体的に希望となるものが、ない。国に対する見方なんて、年齢で対して変わるものではないのではないのだろうか。みんな少しずつ諦めて、でも諦めきれないことが確かにある。それをどうにかして現実にできれば、私たちはどれほど息がしやすくなるだろう。

その、糸口になるような映画だと思う。

 

この世に生きる希望が見出せない人は、どうかこの映画を見て欲しい。出会うことができて良かったと、きっと思う。

このセリフで締めくくられる「夜明けのすべて」という作品に、私は出会えて良かったと強く、強く、思う。