朝日は今あなたを待って

綴ることで自分を保ちたいです

今を裸足で駆け抜ける君に

2024年4月7日、日曜日。私はアイドル・田中樹さんを見た。

本当は帰りの新幹線でメモ帳にその日感じた樹ちゃんの様々を書き記しておきたかったのだけどあまりに時間がなく用意できなかったので、ちまちまスマホに打ち込んだじゅりのアイドルとしての姿を反芻しつつ、その瞬きと私が感じるアイドルという存在について書こうと思います。

二人称がころころ変わります。また、VVSのネタバレを含みます。

 

 

 

ライブに当選してからというもの、今まで見るだけだった「アイドル短歌」という文化に自分自身も入り込み、31文字を捻出することに時間をかけた。未だ円盤上でしか見たことのない樹ちゃんのライブの煌めきを頭の中に想うと、言葉がスッと出てくることが多い。彼自身のストーリー性や本質の見えなさ(見せなくていいし見たいとも思っていないけど)が、私が彼に感じる影の部分で、そうでありながらもステージ上で強い引力を持つ彼がいっとう好きだった。

 

そんなじゅりが、そこにいた。

どうしたらいいかわからなかった。ただただ、選ぶ一つ一つの言葉が好きで好きになった人だから。アイドルとしてのじゅりを見つめ続けてきたつもりでも、実際に目にするとこんなに言葉にできないものかと、自分の語彙力のなさを恨んで、胸を詰まらせるばかりだった。

でも、何より生で見る樹ちゃんは可憐で美しくてかわいくて、何よりかっこよかった。

 

私、本当にライブという空気感が好きだしそれを作り上げてくれるアイドルが好きなんだなぁと思った。

顔が見たい、ファンサを貰いたいというより会話や絡みを誰の手も加えられていない状態で生で見れることの嬉しさと、彼らが作り上げた空間の中に私もいるということがどうしようもなく嬉しくて、後にも先にもこんな感情になるのはじゅりだけだよ、と思う。だから私はアイドルの田中樹が好きだ。

 

例えば私が入った公演は樹ちゃんが「Something from Nothing」1サビを早く歌っちゃった公演なんだけど、私も周りのオタクもそれをかわい〜と思って見てた人が大半だったと思う。でも、オタクのそんな甘さを全部吹き飛ばすように、その後のメドレーを怒涛の声量と熱量で巻き上げていったところ、本当にかっこよかった。

「燃料が100あって、それをみんな人生100年分で注いでいるとしたら、この10何年でその100を一気に消費してる感じだから」を思い出した力強いメドレーだった。

 

 

Seize The Day、今回のアルバムの中でも特に好きな曲なのだけど、ライブで聴くとまた一味違った味わい深さがあって良かった。

今回のライブでの樹ちゃんは、ラップは勿論、歌のパートが印象的で、特にこの曲は樹ちゃんが曲の大事なパートを担っていると思っている。

曲調が変わる直前の「Everybody, we won't be young forever Just seize the day... Just seize the day...」という歌詞を、たくさんの水が噴き上がる幻想的な風景の中歌って、曲の締めに「Just around and moving Keep on goin' goin'」と歌う。

じゅりがこうして歌うことにどんな意味があるのだろうか、とたまに考える。ここにどんな気持ちがこもっているのだろうか、とも考える。

 

少し前に、コロナ禍で配信での公開となっていたディズニー/ピクサーの「私ときどきレッサーパンダ」の劇場公開に行ってきた。

この作品はレッサーパンダになった主人公の体を戻すために周りの人が心を込めて歌を歌うことが必要、という設定があって、作中に出てくるアイドルが、たった一言歌うだけで大きな力を宿す、というシーンがあった。そのシーンが、どうにも忘れられない。あんなにも“アイドルの力”を可視化した作品に出会ったことがなかった。

そしてその描写は、アイドルが私たちに向ける歌詞は、心がこもっているものであると暗に示しているが、実際にそうなのかはわかり得ないことだ。

 

それでも、その映画を観た後にじゅりの歌声をたくさんのお客さんと共に聞いた時、あぁ、私はこの人のアイドルとしての力を信じられるんだ、と漠然と感じた。

アイドルを信じる、という概念がどういうことか未だに掴めていないけど、じゅりを見つめていたら何かがわかる気がして私はじゅりを見つめ続けているんだと思う。

 

 

じゅりが私たちに見せてくれるアイドルとしての田中樹、はただのじゅりの一側面でしかなくて、でもそれがまるっきり嘘だなんて私は思えないから、大きいことを言うけど私は今この世界で息ができているんだと思うよ。

どうにもならない夜に、まぶたの裏にじゅりの姿を見て、涙することがたまにある。それはね、じゅりがとびきり優しいからだよ。常に外側にいる誰かのことを考えるあなたの優しさが、どこまでも染みるくらいあったかくて、私のぜんぶを包んでくれる。

じゅりの優しさはじゅりだけのものだ。じゅりが今まで生きてきた中でのたくさんの積み重ねによって生まれたもの。じゅりが取りこぼさないようにしてくれた一部に自分が入っている時、私はどうしようもなく泣いてしまうし、そのおかげで今日この日を頑張れてる。それがアイドルとしての田中樹の力であり、私が眼差したいと思えるじゅりだ。

 

攻めてるようでいて、大事な人たちを守っている、そんな頭のいいじゅりが好きだし、そんなじゅりが守られる世界でいて欲しいと思うし、私はずっとそれを祈っていたいと思う。ずっと、じゅりのことを祈っている。

 

じゅり、今日この日にアイドルとして生まれてくれてありがとう。じゅりが培ってきた16年間をきちんと拾えるような人間になりたいです。

眩しすぎるくらいの光で私のこと照らしてくれてありがとう。どれだけ遠くに居てもじゅりがたくさん光ってくれるから、届いてるよ。

 

田中樹さん、16歳のアイドル誕生日、おめでとう。大好き。

 

 

 

この空のすべて

 

 

TwitterがXへと変わり、私の手の中の世界は以前よりも攻撃的になったような気がする。元々ここ数年のTwitterとはそういった議論がなされる場だったし、それをただ傍観するだけの立場であったのだけど、その間、自分なりに本を読んだり映画を観たり、自分のことを振り返ったりして、価値観をアップデートしようとしてきた。

だからこそ、ここ最近の、激しくなる一方なSNSに対する疲れや不満が溜まっていた。世界情勢のこともあり、マジョリティとマイノリティ、強者と弱者、その位置関係や交わされる言葉についても色々思考を巡らせた。この世界を覗く時、わたしはいつもピンと心の中に糸を張り詰めているみたいだった。そんな中でたくさん考えた。それでも、耐えられなくなってしまうことがどうにも多い。どうしようもなく涙が溢れたり、現実から目を背けたくなったりする。

どうすればもっと世界は優しくなれるのだろうか。そんなことばかり考える。ずっと深い海の底にいるみたいだった。

 

そんな時に、映画「夜明けのすべて」を観た。

私を底から掬い上げてくれる、一筋の光だと思えた。

今、息苦しいと思いながら生きている人にこの映画が届けばいいなと願いながら、私は今これを書いています。

 

 

最近、いろんなことを考えざるを得なくなっている。元旦に起きた大地震や脚本家の方の自死のニュースが顕著で、そこに関わった人たちは今どれほど苦しんでもがいているんだろうか、と気を緩めると頭の中はそんなことでいっぱいになる。ショッキングな内容のニュースがわたしたちにはあまりにもダイレクトに届いてしまい、そこに付随する声も、よく見える。

わたしたちの分かり合えなさ、マイノリティに属する自分への不安を心から実感する。

 

そんなものをすべてくるむように、じっくりじんわり解していく、わたしの心のケアをしていく映画が「夜明けのすべて」だった。

 

なんて優しい映画であったろうか。誰も誰かの権利を侵害することなく、ただお互いを程よい距離感で気遣いあう、そんな希望を描いている。

栗田科学のような職場なんて夢物語だという声もあったけれど、私は、フィクションにこそ夢や希望を込めるべきだと思う。私たちが一人一人努力すれば、こんな場を作れるかもしれない。そう思えることは、希望にはならないだろうか。

私はまだ未成年の立場であるけれど、今、この国に生きていて、具体的に希望となるものが、ない。国に対する見方なんて、年齢で対して変わるものではないのではないのだろうか。みんな少しずつ諦めて、でも諦めきれないことが確かにある。それをどうにかして現実にできれば、私たちはどれほど息がしやすくなるだろう。

その、糸口になるような映画だと思う。

 

この世に生きる希望が見出せない人は、どうかこの映画を見て欲しい。出会うことができて良かったと、きっと思う。

このセリフで締めくくられる「夜明けのすべて」という作品に、私は出会えて良かったと強く、強く、思う。