朝日は今あなたを待って

綴ることで自分を保ちたいです

スペースのスピーカーになれない

*私が抱える障害と希死念慮について話しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吃音と共に生きてきた人生。

吃音には主に三種類あるけど、私は難発性が主で、連発性もたまに出る。

 

 

保育園生の頃、吃音について同い年の子たち数人にいじられていつも泣いていた。
小学校低学年の頃、吃りを真似されてひっそりと隠れて泣いていた。
それでも私はそこまで吃音を悲観的なものだとは捉えていなかった。それには色んな要因があって、例えば両親の友人が障害についての理解がある人ばかりだったり、父親が吃音症でありながら自営業をしていることなどがあった。
そう、私は周りに恵まれていた。元々大人に懐きやすい子供だったのもあるかもしれない。私の周りの大人たちは、否定せず、流さず、真剣に私の話を聞いてくれた。

考えが変わったのは小学5年生の頃だったはずだ。高学年になってから、圧倒的に「発表」の機会が増えた。クラスの人の前に立って一人で話す、グループで話す。そういうやつ。
その頃から人前に立つことに対する恐怖心がみるみる増していった。
怖い。失敗したら。吃り続けて私一人のせいで発表時間が伸びてしまったら。心の中で誰か笑っていたら。
そう思うだけで胸の鼓動が早くなって、心臓が鉛のように冷たく、重たくなっていく。考える暇もなく涙が出てきて、上半身の中心がぎゅっと絞られた雑巾みたいにキツくなる。
その頃、ああ、吃音を持って生きるってこういうことなんだという人生に対する諦めと、希死念慮が生まれた。

小学5年生のその頃から、ずっと死にたいと思いながら生きている。

6年生、修学旅行の後、修学旅行で学んだことについてまとめたものを他学年に向けて発表する機会があった。
私が今まで苦しくても発表できた理由は、私の醜い疑心を上回るくらいみんながちゃんと私の話を聞いてくれたからだ。私は少人数の学校に通っていたので、2組しかない学年で、合わせて60人くらいクラスメイトと6年間過ごしてきた。それ故、みんなは私の障害について、“そういうもの”と認識してくれていたし、今さら面白がる人もいなかった。
でも、それは、私のことを知ってくれていたから。
なら、他の学年の子達はどうだろうか。
そう想像した途端、無理だ、と思った。私は年下の子たちの前に立って発表することが、できない。また吃って、そして笑われて心が折れる未来しか想像できない。
どうしようもないほど自分に対する嫌悪感と、それを抗うほどの恐怖心が私を襲って、そして私はその日結局学校を休んだ。
なんて弱くて馬鹿な人間なのだろうと今でも思う。でも残念なことに、私にとって傷つかないことはプライオリティなのである。
そしてやはりそれと同時に私を希死念慮が襲った。

確かその頃だったと思うけど、我が家に「吃音 伝えられないもどかしさ」という本が入ってきた。父親が買ってくれた本だ。
本の冒頭にはプロローグがついている。そこから6ページに渡って続く短い“誰か”の告白。私はそこまで読んで、その本を読むのをやめた。あまりに私だったからだ。共感しすぎて、苦しみが一緒で、息ができないくらい泣いてしまったからだ。
ああ、苦しい人は苦しんでる。私と同じ息苦しさを味わっている。
もっとその本を読めば私の救いになるものが見つかるかもしれない。けれど、読めない。
そのテキストの共感力が高すぎて、私がその本を開いた時、必ず指はそのページを選んでいる。読んで、泣いて、辛くなってやめる。その繰り返しになってしまった。なぜか絶望することしかできなくなっている。
ああ、死にたい。私、死にたいなぁ。
漠然とした思いは、どんどん確信に変わっていった。

 

中学生になると、近くの大きな小学校と合併して2クラスから7クラスまで増えた。
私が身を置く環境が、だんだん大きくなっていく。それに比例するように吃音への拒否感、それに伴う自分への嫌悪感が募っていく。

高校生になるとさらにクラスが増えて、私の周りの社会がどんどん大きくなっていく。毎日死にたいと思っている。私は周りに恵まれていて、趣味もたくさんあって、私もそれら全部が大好きなのに、毎日、死にたいという感情が募っていく。

そもそも私は自分のことが嫌いだった。自分の顔も性格も低身長なところも大嫌いだ。それに加えての吃音。もう最悪だと思う。
喋れない、というだけでこんなにも生きづらいのかと感じる。
マイノリティにマイノリティを重ねた人生だった分、他のマイノリティのことも知りたいと思えるようになったし、そういう意味では良かったのかもしれないと思っているよ。けれど、やっぱり恐怖と嫌悪がそれを上回ってしまう。どうしても普通になれない。普通なんてないことはわかっているのに、私がみんなのように喋れたら、どんな風にみんなとコミュニケーションを取れただろうかと思う。

Twitterでオタクと交流してると、色々と関わりの場があることを知る。ライブ会場で会ったり、スペースで話したり。でも私はそれすら怖い。私がフォローしてる人は思考が似ていたり勝手に信頼していたりする人なので私の症状も笑わないかもしれない。けど、それも可能性で、絶対にそうという確信はない(フォロワーのことを貶しているわけではなく、私が勝手に怖がっているだけなので、ごめんなさい)。
スペースで会話しているのを聞いていると、いつも羨ましいなと思えてしまう。入りたいな、でも吃って戸惑われたらどうしよう。私はその一瞬に耐えることができない。
ごめんなさい。大好きです。でも話すことが怖くて、会うことも話すこともできない。

 

家族と話すのも友達と話すのも好きだ。でもずっと、どこかにかえりたいと思っている。“かえりたい”、家にいるのに、私はどこかにかえりたいらしい。よくわからない。ずっと心臓のところに鉛が引っかかっていて、それがどうしても私を息苦しくさせる。吃っている時の、喉に蓋が閉まって息が苦しくなる感覚に近い状態でずっといる。
家族や友人は好きだ。たまに、軽く見られてるなとか、ああそれを否定されるんだとか、思ってしまう時はあるけど、そんなもの帳消しにできてしまうくらい好きだ。でも生きたくないんだ。これ以上吃音を抱えたまま生きていくのが辛い。大学にもきっといけない。社会人にもなれない。なったらなったで今より希死念慮が強くなるだけで、私のメリットなんかない。別に、自殺したいとは考えてないよ。でも、誰かに殺されたいなとか消えたいなとかみんな忘れてくれないかなとか、いつも頭をもやもやと囲んでいるもやみたいなものは、一生消えてくれない。
誰かと話すのも好きだ。でも私の第一声でガッカリされたら。そう考えるだけで体が震えて涙が出るくらいに、本当に怖い。こんな人間、生きてる価値なんかないよ。もう、もう、泥に沈み込んで死んでしまいたい。