入所日のブログは、“アイドルの田中樹さん”にだけ宛てて書いたからシンプルに思いを綴れたんだけど、誕生日のブログは何を書けば良いのかわからなくて難しいな。
だからなんとなく、ふわ〜っと、私が樹ちゃんの言葉をどんなふうに噛み締めて、そしてお守りにしているかを書ければいいなと思います。
○かえる場所
今まで一人だけ俳優に推しができて、その人を好きになったきっかけは、誰かを思いやる気持ちや、それが滲み出る言葉の数々だった。
SixTONESを知って、まず最初にほくじゅりのコンビとしての関係性が好きになった。そこから約一年間くらい、特定の推しを決められずにいたところに出会ったのが樹ちゃんの言葉についてまとめられたブログだった。そうか、樹ちゃんはこんな風な言葉選びをする人なんだ。優しい人なんだな、と思ってブログを閉じた私は、数日後また同じブログを読んでいた。
漠然と“あぁ私はじゅり担になるんだな”と思った。重ねられた言葉たちは、私の知らない樹ちゃんの月日を自ずと教えてくれる。その言葉の優しさや配慮の一部に、私もいることがある。そんなことを感じて、私はこの言葉たちを私の心の拠り所にしていることに気づいた。
いまだに縋りたいものが見つからない時、そのブログに帰ってくる。真っ暗な私の心の底を照らしてくれる小さな光。その光だけを見て私は前に進むことができる。私がいちばん、じゅりちゃんに出会えて良かったと思える理由だ。
私が今まで大切にしていた言葉たちは、特に脚本家の坂元裕二さんの言葉がドラマや映画の中で紡ぐ言葉だった。私は彼の書くセリフを100%理解しているとは多分言えない。だけどずっと心の隅にセリフたちがあって、何かに絶望した時にそれらがぽんと浮かんできて、まるで毛布のような形になって私を包んでくれるような、そんな感覚になったのだ。
じゅりちゃんの言葉は全方位型配慮、と称されていることがあって、なるべく例外を作らないような言葉選びだったり、人、動物、無機物にまで慮っているその語彙が本当に好きだ。大好きだ。なるべくそのひとつひとつを取りこぼさないようにしたいと思えるくらい大切なのだ。
その言葉たちもまた、私の心細い夜を包んでくれるあたたかいもので、今私がいちばん手放したくないものだとはっきりと言える。
漠然と心がどこにもないと感じる瞬間って、みんな等しくあるかも知れない。私はそんな時ふっと「かえりたい」という言葉が頭に浮かぶ。どこにかえりたいのかもわからないその気持ちを、樹ちゃんの言葉を浴びてしずめることが多い。じゅりちゃんの言葉をまとめたブログを何度も読み返したり、大好きでメモした言葉を読み返したり。それはきっと私が樹ちゃんの言葉をいつのまにか私がかえる場所にしているのだろうと思う。もしかしたら樹ちゃんの言葉が好きだ、と思ったその日からかもしれない。
○私があなたを感じる言葉
本当は元々書いてたお誕生日ブログではこれをメインに書こうとしていたのだけど、なんとなく重くなってしまったから少しだけ、載せます。
ドラマ「カルテット」で一人のキャラクターが自分の抱く「好き」の気持ちについて話すシーン。これは私のbio欄にも書いている、大好きなセリフ。
「私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか。(中略)ちょっと、ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?住所をまっすぐ書かなきゃいけない時とか、エスカレーターの下りに乗る時とか、バスを乗り間違えないようにする時とか。(中略)白い服着てナポリタン食べる時、そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの。いて エプロンかけてくれるの。そしたらちょっと頑張れる」
私はドラマを通してもこのシーンがいっとう好きだ。多くの人が共有することのできる、好きという気持ち。それが今のところ実際会ったことのある誰かに向くかはまだわからない。けれど樹ちゃんへの好きは、このセリフととても近いところにある。ずっと、常に、樹ちゃんがどこかに存在してる。好きだと考える暇もないくらい常にいるなんて、そんな気持ち今まで経験したことがないのだ。だからこそ、このセリフのように樹ちゃんはことあるごとに私を正してくれる。もし体の中心に糸が通っているのならその糸を真っ直ぐにしてくれるような、そんな感覚。それは家族といる時も、学校にいる時も、友達といる時も、ベッドの中にいる時もそう。私は発表というものがものすごく苦手で、それを行う時も。より良いものにしよう、少しでも良いことをしよう。そんな気持ちの先に、いや、ずっと手前に?樹ちゃんがいるから、その一瞬の躊躇や踏ん張りを乗り越えられる。
だから、というわけではないけれど、そんな人に出会えて良かったと、心から思っている。
「ライヴっていうのは「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所なんですね 」
ひとひら言葉帳(@kotobamemo_bot)のポストより知った、穂村弘さんの言葉だ。
私は今年のVVSが初参加したSixTONESのライブだった。これは樹ちゃんの入所日ブログにも書いたけど、顔が見たいというより会話やスキンシップを誰の手も加えられていない状態で生で見れることの嬉しさと、彼らが作り上げた空間の中に私もいるということがどうしようもなく嬉しくて、後にも先にもこんな感情になるのはじゅりちゃんだけだよ、と思う。それが本当になるかはまだわからないけどそういう大きな予感を抱けていることが私にとっては奇跡みたいなものだ。
アイドルの彼らが歌うのは夢であり幻想だと思う。私にとってそれはイコール嘘ではない。けれど確かに“夢”ではあるので、それは現実ではない。私がアイドルに縋る時間は全て現実逃避だと言っていい。それくらいの力がアイドルにはあるから。
樹ちゃんがどこかで言っていた、「アイドルの仕事を楽しそうと思わせたら勝ち」という言葉もこれに関連性があると思う。アイドルというのは職業だ。私の好きな人たちが後天的な属性として選んだ一つのおしごと。その仕事の一環としての行為に私たちは魅せられ、そして救われる。
樹ちゃんが私に夢じゃない夢、を見せてくれる。それはアイドルの力を信じられるということだ。私がもしじゅり担を降りることがあるとするならば、それは多分樹ちゃんのアイドルとしての力を信じられなくなった時。君の紡ぐ言葉が信じられなくなってしまった時。でも今樹ちゃんのことを見つめている私は、そんな未来はきっとないと思えている。このことがどれだけ希望か、君は知らないままでいてほしい、とさえ思う傲慢さも全部知らないでいてくれるね。
わたしを見つけてくれてありがとう。わたしを好きになってくれてありがとう。ねえ、戻れない場所がいっせいに咲くときが、世界にはあるね。ずっと、ずっと元気でいてください。お元気で。/川上未映子「青かける青」
こちらもひとひら言葉帳のポストから。
ファンが推しを決めることを「見つける」と称することがあるが、私にそれを置き換えるとなんだか違う気がする。
私が彼を見つけた。本当にそうだろうか?本当に私が彼を見つけ、そして選んだのだろうか?それは違う、と思っていた。この言葉を目にした時、私の感情の答えはこれなのだと、思った。私が樹ちゃんを好きになったのは、私が彼に見つけてもらったからだ。
樹ちゃんの言葉はどこまでも広く“誰か”を内包している。そしてその一部に自分が入っていた時、ものすごく嬉しい。樹ちゃんがもしスポットライトだとするならば、私はそれに照らされているから、今日も生きていると言っても過言じゃない。
樹ちゃんが私や誰かを見つけ、選び、照らして掬い上げてくれたから、私は樹ちゃんに救われたと思える。思えている。だから私はじゅりちゃんが好きなのだ。
そしてじゅりちゃんの言葉たちは、私を認めてくれること、と同義だ。
人に認められないと自分を否定された気持ちになり、自分で自分を殺してしまう。それを樹ちゃんがしてくれたことは、認めてくれたことは私にとって紛れもない事実だから。だから、ずっと元気でいてね。笑っていてほしい。私の好きはその人が笑ってくれること、と好きな人も言っていた。だから笑顔でいてね。私を見つけてくれてありがとう。
「救い上げる」ことと「掬い上げる」こと。これらは同音同義語だと私は思っている。そしてそう考えるたびに樹ちゃんのことを想っている。
私は樹ちゃんに、ずっと、祈りを向けていたいなと思ってしまう。傲慢だということもわかっているけれど、それでも樹ちゃんが幸せな未来で生きてくれるのならば、それ以上の幸福はないなと、つい思ってしまうほど大好きだ。
○眼差すひとであること
樹ちゃんの優しさは樹ちゃんだけのものだと、そう思う。私が樹ちゃんのことを知ったのは本当に遅くて、どういう経緯で事務所に入ったのか、とか、家族のこととか、何も知らなかった。だから樹ちゃんの言葉を知って、そしてアイドルとしての人生を追って、勝手にその裏側を想像した。じゅりちゃんの言葉の優しさは、自然とそうなったのではなく(自然と生み出されている言葉も様々あるが)そうならざるを得なかった部分があったのではないか。もちろんこれは私が勝手に解釈したじゅりちゃんの像なので事実でもなんでもないが。そうするために、どんな経験を積んできたのだろう。樹ちゃんは自身が中学生の頃に教師に本を読むことを勧められて当時はたくさん本を読んだと言っていた。その、「自分が読みたい本で言葉を覚えていく感覚」は今の樹ちゃんにどんなふうに影響しているのだろうか。
樹ちゃんが普段、正しい敬語を使うのに脳みそを働かせているという事実が私はとても好きだ。樹ちゃんの生を感じると共に、これまで、を感じられるから。感じられる、というより勝手に感じていると言った方が正しいのだけど。
樹ちゃんはまず、ソロ曲「Sorry…」のメイキングにて「僕が歌うことの説得力がすごくある気がしてて。この楽曲が。リリックひとつひとつが。“田中樹”像、になるべく近づけていくというか。」と話していた。そして2023年10月号のananでも、自身の言葉の説得力について話していた。樹ちゃんの、ファンの人に届けるべきものをちゃんと届けようという姿勢と、さっき見た亀梨くんとの動画で自身の劣等感について言及するところ(ギリ生きオタクすぎるね)が共存しているところに、私が抱く樹ちゃんらしさを強く感じるなと思う。そのための立ち居振る舞いだったりをこなし、それでも言葉に滲むのは樹ちゃんの優しさであることを、私は何度だって噛み締め続ける。優しさには天性のものと意識してそうするものの二種類あって、樹ちゃんにはそのどちらもを感じる瞬間が多い。樹ちゃんが誰かに向けた優しさをこんなに享受できるなんて、私は本当に幸せ者だと思う。
そして樹ちゃんは、VoCEで言葉の責任について話している。番組の見え方を意識し、発する言葉の力の強さや加減を調節し、そして伝える。なんて強い人だろうか。私は樹ちゃんが巧みに言葉を操り、鎧を纏っていることをすごく嬉しく思っている。私が樹ちゃんを好きになって何より感謝したのは、樹ちゃんが生身のままでそこにいないことだった。勿論芸能人なんてみんなそうなのであろうが、樹ちゃんには特に強くそれを感じた。武装する鎧を纏ってくれているひと、それが今の私の好きな人である喜びやうれしみは想像以上のものだった。
樹ちゃんが人一倍言葉というものに気を遣いながらそれをちゃんと自分のものにしていること、そしてたくさんの配慮に満ちた言葉遣いをしていること、それらが同時に存在するきみの頭の中を、一度見てみたいとすら思う。
私は樹ちゃんをずっと眼差している。樹ちゃんが使う言葉の数々を浴びてめろめろになりながら、そんなきみになりたいと思っている。それを可能にする経験も、努力も、私には計り知れないけれど、けど優しい人でいてくれるじゅりのことが何よりも好きで、近づきたいと思ってしまう。それが私だった。
○おわりに
本当(マジ)で誕生日当日にばたばたしながら書いたので脈絡のないごたついた文章になってしまっていると思うので、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます!😭
樹ちゃんに向けるすきの気持ちはなかなか言語化できなくて、こうして想う気持ちの数々に、私のほんとうが散らばっているのだと思います。そして樹ちゃんが紡ぐ言葉たちも、そうであればいいなと思いながら私は今日もラジオを聞いてその幸福に酔いしれるのだと思います。
何が言いたいかというと、とにかくだいすき!ということです。
樹ちゃん、29歳のお誕生日おめでとう。アイドルとしてたくさん言葉を紡いでくれてありがとう。私に出会ってくれてありがとう。
樹ちゃんがどうかめいっぱい幸せを感じて、大好きな人たちと笑っていられますように。